おもいでの初代黒猫チコ                  
       
  やさしい母猫の物語     
           日本がまだ貧しくも思いやりであふれていた時代、
             母のいない淋しい日、体温のぬくもりで暖めてく
             れた優しかった猫を思い出すのです。


   在りし日の夏
         

生き物との出会い

 
何百年も動物たちと共存してきた八ヶ岳南麓の古い家、私の生

家は、穀物倉があるためか実に沢山ねずみがいました。納屋を片

付ければいつもねずみの巣があり、可愛いねずみの子たちが驚い

てキーキー鳴いていました。白くすべすべした不思議なねずみの

子に触れようとするたびに父は不潔だからといって触らせず取り

上げ、 巣ごと川に流してしまいました。親を求め首を伸ばして、

まだ見えない目でなにかを訴える子ねずみの姿は、子供心にもい

つも哀れでなりませんでした。おもえばこの子ねずみとの頻繁な

出会い、別れたちが、いまに至るまで哺乳類をはじめ、なにか生

きて動いているひよわなものへの親愛の思いを育てた要因の一つ

なのではないかと思います。穀物を食い荒らすねずみにしても、

ただ単に、生きたかった、だけなのです。彼らには耕作する能力

も罪の意識も全くないのです。さすがに、仏壇の飾彫りなどをか

じられたり木の柱を傷つけるよう傍若無人ぶりにはもう耐え切れ

ず、猫の出番を期待する訳なのですが。 実際飼い猫のいない期

間にねずみの害が増し、欄間飾りを食い破り隣室に出入りする我

が物顔の振る舞いにさすがに怒り心頭。 夜更けに追い詰められ

逆上して向かってきた二十日ねずみを瞬間的、足で踏みつけた時

の生ぬるい哺乳類の体温の感触に、本能的闘争の人の身の残忍さ

に心は動揺、ああ我ながらなんと恐ろしいことよ。 数日まんじ

りともしない日々を過ごしたものです。

 しかしいたいけな少女の頃の博愛は何時かは終り、大人になれ

ば美しい友情より彼らといかに共生していけるのかが優先なのは

仕方ないことです。


カイゼルヒゲと黒猫

 とおい記憶をたどれば4歳の頃、母の里から仔猫がやってきま

した。母はねずみ退治のためにもと思ったらしいのですが、ちい

さな仔猫を当初、紐で柱につないで、姉たちが食事の面倒を見て

いました。それはねずみと猫の区別がやっとわかった頃の事だっ

たと思いますが、暗中模索の猫の飼育であったろうと思います。
 
 
 南アルプスの麓の母の生家には、日露戦争で二百三高地戦を戦

った、乃木将軍の部下の白いカイゼルひげを蓄えた老いた祖父が

おりました。従妹たちとかけっこ遊びなどした広い家の一番奥の

部屋で独り、猫とラジオが友達の日々をすごしておりました。母

は戦争の思い出というと太平洋戦を通り越していつも、庭に一本

(ひともと)なつめの木―、という旅順開城の水師営の歌を歌っ

てくれたものです。“ふるさとの 山路行きつつ悲しかり 訪い

行く家に父は居ませず”は、祖父の死の後の母の歌です。とうと

うこの歌を自分の身に重ねる日を迎え、歳月の流れの速さに呆然

とする時があります。 猫たちの思い出を辿ることはまた、過ぎ

去っていった、家族の歴史をなぞる事なのだと気付きます。

 
 20代の初め赤坂のTBS局舎、乃木坂あたりが仕事場だった時

近くの乃木神社にも散歩に時折ゆきました。あまり人影もない緑

に覆われた静かな境内には、乃木夫妻の居室も展示されて、かの

大陸のなつめの木の孫の木や、夫妻の自刃の時の品々を洗い清め

たという井戸もありました。赤坂界隈のモダンなお店のひしめく

乃木坂通りを登りきる辺りにふと現れる明治の面影。そこは白い

ひげの祖父と、黒い猫を思い出させる不思議な空間でした。

 ついでに、祖父はロシア兵の銃弾を首に受け瀕死の負傷でした

が当時、 騎士道と武士道のなごりか止戦があり、双方負傷者を

回収しあったあと、また合図により再度開戦したと聞きます。こ

れにより、多くの死傷者を出し作戦は失敗だったという二百三高

地戦をからくも生き残り、勝ち戦さの近衛兵として厚くもてなさ

れ帰国。その後母が生まれたのでした。遠くなった明治の、恐ろ

しい化学・生物兵器もない、人間くさい戦をしていた思えばよき

時代でありました。しかしそれは人類の歴史から見れば、つい昨

日のことのような時間の隔たりです。人間の奢りは、何千年の間

に培ってきた輝かしい文化を破壊しまるで自滅するかと思われる

ほどの、危うい〈文明〉に踏み込み過ぎているように思えてなり

ません。




との暮らし

 ジャンボリーの夏、バスで家に帰る道々竹編みの葡萄かごにい

れた仔猫がみゃおみゃおひどく鳴き、運んでいた姉が顔を赤らめ

もじもじするのを足元で私は眺めていました。旧盆でバスがとて

も混雑して いて隙間がない状態なのでしたが、とにかく元気な

黒いメス猫一匹をもらいうけ、猫は我が家の一員となりました。

この前後、セピア色のアルバムにみると、やっと記憶が定かとな

るわたしの‘物心ついた’ころのことでした。それから17年余、

私が成人し社会に出るまで、この黒猫のチコは想い出をみんなと

共にすることになりました。チコは狩の名手で、夜更けにねずみ

をよく捕りました。人間が眠りこけている夜は夜行性のねずみと

猫の世界。朝起きると寝間の隣室にねずみの頭だけごろごろと転

がっているときがよくありました。捕ったとった〜、褒めてくだ

さいな〜と人間のそばに運んできても、人は皆眠りの最中なので

ひとりで食べては捕り、捕っては食べを繰り返していたのです。

栄養豊かなペットフードのない時代、ねこたちはきっといつもた

んぱく質不足でオカカゴハンよりねずみが美味しかったことでし

ょう。しかしながら、多くの家に飼猫のいた昭和30年代には、

それは愛玩動物でありながらエジプト猫と同じネズミ捕りの家畜

で、私にとっては姉のような、母のような頼りになる大きな存在

でもありました。サナトリウムに入り母が不在だった7,8歳の

頃、学校から帰り誰もいない時はひとり、猫の添い寝で眠った子

供時代に、チコは親同様の恩ある猫なのでした。少女時代といえ

ば猫と遊びともだちの仔山羊たちを除いて思い出は語れないよう

な、自然の中のアルプスのハイジさながらに、のどかに楽しい幸

せな時代でした。

 いまでもどうぶつたちの体の、汗や毛、皮膚のにおい、うっす

ら温もる生き物の匂いを思い出します。それは記憶に沁み込んだ

懐かしい哺乳類たちの醸す、太陽のエネルギーを含んだような、

干し草のような不思議なやさしい匂いなのでした。ふっくらお腹

に顔うずめれば、それはどの猫にも共通しているただただ懐かし

い、私にとっては心安らぐ薫りなのでした。
 
 ところで近年、映画『もののけ姫』を見て大いに感動、深みの

ある美輪明広の声の賢い白い山犬モロに傾倒、心はすっかり森の

少女サンになって、手に汗握っている自分に気付き笑ってしまい

ました。宮崎監督のアニメ映画は、2003年度アカデミー賞も与

えられその作品の芸術性は世界が認めるところになりましたが、

根底に流れるのは環境問題や、動植物や自然との折り合いについ

て訴えているものが作品の多くに感じ取られます。アニメーショ

ンを単に子供向け作品と思い続けている‘おとなたち’には、こ

の種の映画の制作にかけられた莫大なエネルギー、膨大な絵、作

る人々の熱い情熱のたまものであるアニメ映画の楽しさをもっと

味わってもいいのでは、と思っていました。気の遠くなるような

沢山の作業と費やされた時間を思えば、観覧料二千円は高いとは

いえない気がします。

 また、狼に育てられた少年モーグリの大活躍する子供向け冒険

映画『ジャングルブック』も、子供に還り何度もビデオでみてし

まう好きなどうぶつ映画です。躾けられ訓練された動物たち、沢

山の狼たちはもとより黒豹、熊、猿その他、演じている動物たち

と一緒に遊びたい、話してみたい、触ってみたいと思ってしまい

ます。世界にはヒトに勝る全くすごいタレントがいるものです。

 
おまけ


映画『もののけ姫』のテーマ
               
 米良美一 めら よしかず)
     
   張りつめた弓の 震える弦(つる)よ
   月の光にざわめく おまえの心
      
   研ぎ澄まされた 刃(やいば)の
   美しい その切っ先に
   よく似た そなたの横顔
   悲しみと 怒りに 
   潜む まことの心を
   知るは森の精 
   もののけたちだけ
      
   もののけたちだけ 







子供時代の終わり
  

 18になると私は進学し学寮生活に入り、夏冬の休みに帰郷す

るだけになっても、猫は家で暮らしていました。若い心は 未知

の世界にとらわれ仲良しの祖父も猫も、空気のような当たり前の

いつもいるだけの存在となり深くは心を占めることもなく、今思

えば2人ともっとなぜコミュニケーションしなかったのかと悔や

むばかりです。5人兄弟の最後の私が家を出ると、祖父には遊び

相手話し相手は猫しかいませんでした。広い世界にとびだしたば

かりの私には新しい世界は珍しく楽しく夢中で過ごしていました

。子供時代は終わり何かあわただしく過ぎていくめまぐるしい都

会の暮らしに紛れ、のんびりした家の子供時代の生活から少しず

つ遠ざかりつつありました。いつの世、誰もが経験する巣立ちの

時を迎えたのですが九十近い祖父の万年筆のインクの補充は、あ

れからは誰がしてくれたろうか、などと仔細なことを、今ごろに

なってなぜかふと考えたりしてしまうのです。なにしろ当時の地

方の青少年は、進学に就職にと多くが都会に出るのがまったく普

通のことなのでした。



         
            
     子供のミカ          晩年のチコ



  さようなら レデイ・チコ
 


1危篤のしらせ

 チコが重態だと連絡があったのは21歳の時でした。もう牙どこ

ろか歯の全てがなくなっていた老いたチコに、父はむかし幼い私

にしてくれたように魚の身をほぐし、食べやすくして与えてくれ

ていました。人間の年齢では90歳過ぎというチコは、父母たち

と一緒に私の巣立った家で静かに暮らしていたのでした。見た目

には毛艶も変わらず美しく、走り回ることが少なくなったほかは

特に年齢を感じさせるほどのものはありませんでした。17年余を

病もなくすごしてきた彼女でしたが確実に、今深い老境に入って

いました。唯一つチコに命の危険か病があったとするならば、貰

い手がなく一緒に暮らしていた息子が、食べても食べても終わら

ない大食漢で、母親の皿まで平らげる毎日だった時、チコは大き

く育ったわが子に自分の餌をすべて与えて胃袋が空になっていた

時がありました。人間たちはそんな親子の関係にうっかり気づか

ず、哀れにも痩せて、よろよろに衰弱し始めてから事の成り行き

を知りました。10歳をかなり超え既に狩も頻繁でなくなった頃

でした。大きな息子トラ君は、その後近所中で一斉に行われたね

ずみ退治のための殺鼠剤を体内にいれたねずみを食べたらしく直

後に行方不明となり、結果として何ヶ月もあとに納屋の天井裏で

ミイラ化して発見されました。ねずみ駆除時は飼い猫が何匹か犠

牲になり常に問題になりましたが、強運なチコはいつも生き延び

ていました。トラの失踪の後チコはもりもり食べ進み、みるみる

元気を取り返しました。巣立たないわが子を排斥するのが猫科の

習性のはずですが、いつまでもわが子を愛しんだ母猫チコをまた

思い出します。または単純に見えながらも密かに思慮のあった母

親思いのトラが、大食の自分の身を捨てることで優しい母を永ら

えさせようとしたのでしょうか。 

 

2 天国に旅立つ日

         
 忘れもしない菊の花盛りの晩秋、チコは骨と皮になりやつれき

って待っていました。体をなでればふくよかだった懐かしい体は

ただ骨の感触ばかりで、涙がこぼれてとまりませんでした。

      

 掘りごたつのそばでうずくまっている猫は、毛色こそ黒くつや

やかでももう口元に当てた水をわずかに飲むだけで、いつもの声

はありませんでした。寄り添う私を静かに見つめるものの、支え

てあげなければ首もひとりで持ち上げることさえ出来ない有様

で、どう見てもその寿命が尽きかけているのが判りました。人間

なら、みんなに取り巻かれているだろう夜更け、起きているのは

チコと私だけ。家族はみんな眠っています。この世に生まれて初

めて、家族との別れの哀しさを知り涙をこぼしたそれはこの時か

らなのでした。秋の夜は淋しく寒くしんとして、哀しさは一層募

るのでした。

 “チコは人間だったらみんなに大騒ぎされるものを、ねこだか

ら親戚のお見舞いもないね、かわいそうに” 母はそういって同

じ実家から来た猫を憐れんでくれました。

 小さな私を親のように暖めてくれた体の温もり、食卓での行儀

のよさで、母を感激させていたレデイ・チコ。仔猫を護り勇敢に

敏捷に走り回った若い日。景色に溶けいつもあった黒い姿はその

まま私の成長期に重なり、思い出は数え切れず、朝まで眠れずに

ただ傍らで泣いていました。当時の獣医はもっぱら家畜の為の存

在で猫を診てはくれません。むろん不妊手術もしていません。17

年余の長い年月の春秋に生んだ数え切れない仔猫の数、もらわれ

ていった仔猫の数、成人してから亡くなった猫たち。皆懐かしい

誕生と別離の思い出なのです。年とってからのチコは仔猫を屋根

裏や納屋のどこかに忘れ去り、咥えてきたときは冷たくなってい

たことも多くなり、忍び寄る老いを感じることもありました。そ

れが何時頃からだったかは、今考えてももうよくは判りません。

とも角、私は家で生まれた猫たちの墓を、庭の植え込みや花畑の

中に幾つも作ることになりました。それは延々18歳まで毎年続い

ていました。
 
 多産のチコの乳房になにやらしこりがあるのには気がついてい

ましたがそれはすでにもう手の施しようのない病巣でした。この

病がなければもっとながく生きていてくれた筈の、長くみんなの

思い出に残っている猫は、賢く穏やかな性格でした。

 私が去った後チコは納屋の日あたりのいいいつもの縁台で、暖

かい朝陽を浴びながら身を隠すことなく数日、ひとりで死を待っ

ていたそうです。最後を看とってやることは出来なかったけれど

その存在を長く心に抱き続けることで、猫の魂は昇天・浄化して

くれていると思っています。長いこと密な生活をしてきたひ弱だ

った私が幼年から成人へと大病もせずなんとか一人前になったの

を見届けてから、彼女はこの世を去っていった、と思うことにし

ました。

        

 本来人と共に過ごす小動物たちは、保護すべき弱き者であり子

供であり、人間の目線の下にあるものです。けれど黒猫チコに限

っては今でも、猫ながらも年上の懐かしい保護者のような敬愛の

想い出の対象であり続けています。 それは、父母たちにも勝る

優しいしかし、言葉を持たない存在としての、言い尽くせぬ憐憫

とともに。 

          


3 富士臨む猫塚

 チコは庭でなく、家の墓にうずめてほしい、庭の花で飾ってや

って欲しいと祖父によくよく頼み置き、短い帰省を終えて東京に

戻りました。よしよしわかった、と返事をして、孫娘の頼みを引

き受けてくれた優しかった祖父もそれから4年後、同じ墓に入っ

てゆきました。時は静かに流れてゆくばかりです。父が作ってく

れた栗の木の墓標には、黒く太く『猫 塚』と書かれました。

 腐らない木はないけれど硬い栗の木で作られた猫塚は、数年も

のあいだ墓標として立っていました。傍らの祖父の墓石は御影石

の蓮台に猫足。生前から死後のためこっそり好みの石を用意など

して、禅宗と祖霊を深く信心した生家の祖父は奇しくも釈迦入滅

の2月16日、善良なる92年の天寿を全うしました。生あるもの

すべてへの畏敬のこころ。道の端の草の芽のような幼い日々折々

に、祖父たちから受けた慈愛、自然へのやさしい想いを現在のふ

るさとに見るのは難しい時代になりました。

        
 
 名もなく消える野の民のひとりとして生き、世を去った明治に

生まれた勤勉な祖父たちの生涯。それは小学生時代に熱中したア

フリカ・ランバレネのアルベルト・シュヴァイツアー博士(蚊一

匹をも殺さずにいたという)の偉業には遠く及びません。しかし

私には崇高な偉人と祖父たちが、ふと重ねて見える時があります

。日本の歴史にかろうじて残った最後の大家族制度の中で育った

人々には偉人と呼びたいような、知恵や愛を、無償で注いでくれ

た沢山の祖父たちがきっとどこにもいたはずです。

 身近におじいちゃんこ、おばあちゃんこを認めると、たまらな

くいとしい、幸せな気がします血の繋がりに関わらず。彼らは、

真っ当に生き年重ねて老いた人間たちを、疎ましいなどとおもう

ことはないでしょう。



     
  
       祖父(73)との墓参 就学前
 

    

      美味しいミルクの提供者、山羊の親子



 空の広さを山々が縁どる、人と猫の眠る場所は明るい陽光に恵

まれ東南に裾野を引く富士のよく見える高地でした。夏の想い出

の一つは、油蝉の鳴き声いっぱい聞きながらキャンデーをなめな

め、夏草にうもれた墓地を祖父と2人で奇麗に化粧することでし

た。帰省した親族らが旧盆にそろって墓参をするのが当時の行事

なのは特に珍しいことではありません。そしていつかはみな、生

まれた家の墓に入っていくのが日本の多くの家の慣わしでもあり

でした。
 
 厚い栗の板の猫塚もとうに朽ち果て、そのあたりには本体不明

のままの古い先祖達の墓石の丸い頭部が、いまは幾つかまとめて

置かれています。墓参の折ここは猫の墓となり先祖として参る慣

わしとなりました。

 いつの間にか夢のように年月が経ち、人も世の中も大きく変わ

ってゆきました。“往く川の流れは絶えずして、しかも、もとの

水にあらず”、の如くです。故郷の家に猫の姿も父の姿さえ今は

なく、庭の木々の姿も、この世に変わらぬものはなにもないとい

われるとおり住む人と共に変わってゆくばかりです。 しかし周

囲の山々のみその姿は変わらず、忙しく変貌する人間たちのその

小さな短かい営みを、祖霊と共にじっと見守っているかのようで

す。現世に在りながら私たちは、大いなる蓮のうてなにすでに乗

っているのかもしれません。しかしその台(うてな)に、大家族

で賑やかに過ごした思い出の日々を彩る“黒猫チコ”の面影が消

えることはありません。

 また当時といえば、日暮れて山道を尋ねてきた遠来の人をも、

父はもう遅いからと1泊を勧め一緒の食卓でつきたての餅など振

舞うような、千客万来の思い出いっぱいのおおらかな時代の家で

もありました。

           
輪廻するいのちと出会い


 時の流れは止めようもなく、ただ流れ流れてゆくものです。

巨きな『時の歯車』は、星の動きの永遠の中で留まることなくひ

たすら動き続けるものです。生けるもの全てみな、その時のはざ

まに仮に頂いた命の一つであるならば、それらはまたいずれお返

ししなくてはならないものなのかもしれません。
 
 何十億人の中から、一生のうちに出会える人間の数はごくわず

かなものです。そのうちで、より濃い想い出を共にするひとはま

たわずか。家族親族・学窓・職場・趣味・旅先等々でそれからま

た様々な出会いから。行動範囲の差によってその数がちがってい

ても、いろいろな縁あって袖触れあい人生をより豊かに送れるの

は、とても幸せな楽しいことだと思っています。
 
 「この‘縁’は、大切にしましょう」。 亡き上司のこの言葉の

力に動かされ、長く勤めることになったかつての職場は、思えば

恵まれた学びの場所人々との出会いの場所であり、思い出の多さ

にはまことに、‘縁’の不思議さを感じずにはおられません。どの

ような小さな出会いから始まっても、それはきっと浅からぬ何かの

“縁”にちがいないのです。
 
 人の手に運命を委ねた無力な動物たちには、なお限られた儚いほ

どの出会いなのに、途中で簡単に縁を放棄する人が多すぎます。い

ったんは家族として選びながら、です。 

 かれらは自からか住む家を選んでやってくる、といわれるものの

、飼い主(家族)の手の中に運命をすべて握られている弱い存在な

のです。そう思えば憐れでならず、途中で簡単に別れることなどど

うして出来るものかと訝しくおもわれてなりません。
 
 動物の心の動きは、人間と何ら変わらない部分があまりに多い

ことに驚きます。彼らは市民権のない真の家族なのだと思う瞬間

です。人の言葉でしゃべることは、種を違える彼らの宿命の頭脳

と肉体的制限で不可能ですが、明らかに意思が通じるときがあり

ます。 退屈したり、なにごとか寂寥を感じ人を慕っていること

は目や声、動きからはっきり解ります。動物たちと接していると

人間だけでこの世に生きているのではないことを実感します。彼

らから受ける種種の恩恵はあまりにも多く、あらゆる動物のおか

げをもってヒトは生きているのだ、としみじみ思わせられます。

 幼い日から動物たちとともに育ち、猫とともに暮らし、猫に今

も安らぎを得、猫の縁で広がる人間の輪に、天国の猫たちは皆満

足していてくれているような気がします。

“ほら、わたし(ボク)たちって捨てたものじゃないでしょ、楽

しんで生きましょうね”などと、言っているかもしれませんね。
 
 忘れずにいつも覚えている人の前には、彼らはまた、違う別の

個性の形になってやってくる、これはいま私の深い確信になって

います。




      (写真提供 猫のひょうたろうさん)

 人は、その生活に何の意味もないと思っていたような小さな生

き物によっても、密かに大きく育てられていく時があります。美

しいこの星に、奇跡のように発生して共に生きて来た沢山の命に、

友情というよりも種を超えた言いようのない慈しみをふと感じる

瞬間です。


  

  

         人生の艱難辛苦から逃れる道は2つある。
         
音楽 と  だ。(A. シュヴァイツァー)
 





                    完       





     
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