ロシアから来た物語

ようこそ こんにちは。ここは灰色猫の
 
はなちゃん(はなこ・ナターシャ)の、
小さな手作りのROOMです。
    お時間がある時はどうぞおたちよりください。

      
幼少名は通称ピンク
(Bellflower Babypink)
   
1997年3月14日、東京都区内で産まれました。
    ミルクとチーズ、鶏のささみボイルが大好き。

 
人見知りしない楽天的情熱的性格です。


                                                 
   

                  ベルベルママの住む家で     ひとりでカーテン遊び      絵筆で遊ぶbabyはな         

《灰色猫・ロシアンブルーとの出会い》
     
  
1.ペットショップの子猫、サーシャ
 
 黒猫ミーシャを実家に送ってから、猫にあいたくて勤め帰り、Kまちのペットショップによく立ち寄りました。今は移転してしまった駅ビルの店にかわいい仔猫が数匹いつもいました。猫はお店にとっての売り物大切な商品です。声をかけてはいけません。音を立ててもならないものですだから、そっと眺めていました。
 ある日生後50日くらいの仔猫、種類はロシアンブルーでしたが到着したばかりのその子は、幼くてまだ親を恋しがっている様子なのが目に留まりました。目が合うと私が行く方向にずっとついてきて、わたしを見つめてガラスの向う側で小さく鳴きます。とても不憫で、引き取って抱きしめてやりたいと思いました。でも値段は高いし、私には里親をまっている野猫がいるのだからと思っていましたからそれはただ、見つめあうだけの縁なのでした。
 暫くしてまたふらりとお店に行くと、あのこはずいぶん大きくなって、相変わらずあのケージのなかにいました。飼い主はつかなかったのです。なにか哀しくなりました。こんな陽も射さないところでずっと、毎日毎日遊び相手もなしに人目にさらされていたのだ。しかもこの間のなつこい瞳はなくなり、すこしふてくされた様子で人目も気にせず寝ていました。
 環境で猫も急速に変わっていってしまうものです。成長とともに値段はすこし上がっていて、飼い主はなおつきにくいだろうと思われました。
 世の中には産まれてしまい困っているねこたちが沢山いる、かつてのミーシャのように。買いもとめる猫なんて私向きでないと、じっと、こらえて帰りました。それにこの野性味たっぷりな姿の種類の猫なら、お庭のある広いお屋敷がふさわしいのだろうとも思いました。なんといってもたった3室くらいのマンションでは、あまりにも不憫、可愛想すぎる、と自分をなだめたのでした。
 なにかの用事で出会ったときの猫ともだちにこのことを話したところ、“その子買(飼)ってみようか、”と、見たこともない猫に哀れを感じたのかいやに乗り気の様子でした。その友人の実家には、ミーシャそっくりの黒猫ジジがいた縁で、写真など見せていただき猫話がはずんだことがあったのでした。
    
     


 しかしそれからどんどん日は経ちそのうち、Kまちのショップの仔ねこ、勝手に名づけたサーシャのことは日々のつまらない雑事に紛れ、すっかり忘れ去られてしまいました。 
 人間とは、自分中心の全くいい加減ないきものです。そしてロシアンブルー種と暮らしている今、あのとき勇気を持たず、なにかと理由をつけ、縁をつながなかったことにはサーシャに対し申し訳ない気がするのです。 が、サーシャはきっと今は広い家で大切に可愛がられ、楽しく暮らしている、きっとそうだ、そうに違いないだろう、と思うことにしているのです。 
 けれど今でも、どこかのショップで同種の仔猫を見るたびあの日、私をじっと捉えるように見つめて鳴いたKまちの可愛いサーシャ、 “ 連れて行ってー、ここから出してー、抱っこして― ” と訴えていたような、あのちいさなな小さな仔猫、幼いサーシャをふと思い出す。そしていまも時折ふっと、こころに言い知れぬ心の痛みを覚えるのです。
  
  
“ サーシャよ、今は、幸せですね? ” 
           

     
            番外:ロシアへの旅 
    
       (中央アジアのオアシス都市へ)


   広々の大地‘ユーラシア’大陸に位置してヨーロッパとアジアが不思議
  に交じり合う、ロシアには憧れがありました。政治的にはともかくロシア、
  当時のソビエト連邦は素朴な農民の国です。生み出される芸術は音も色も
  言葉も繊細で華麗です。先行をよしとする現代絵画に比べ、統制の元にな
  がくあったことを差し引いてみてもロシア絵画にはやすらぎの詩情があふ
  れて、美しいリリシズムも感じとります。
   シェルバコフ描く、緑あふれる画面の中の農夫姿のトルストイ、レーピ
  ンの大作“ボルガの曳き舟びと”の帝政ロシアの農奴たちの、哀しみ絶望
  の人間の限界の眼。このリアリズム絵画に対しては評価は当然別れもるの
  ですがこれは好みであり、何といわれようとどうしようもないことです。
  説明だ、それが何だ、遅れている、と評されがちな具象の画が、ひそかに
  大衆に好まれるのは、絵はその道の玄人のためのものだけではないからだ
  と思えるものです。
   しかし、日日発展し続け変化してゆくあらゆるアートを自由に選択でき
  、勝手に批評できるのは自由の国日本にいればこそ。自由を奪われた苦難
  の時代を、マイヤ・プリセツカヤは白鳥自伝で回想しています。中国の文
  革に匹敵する、長いソ連邦での厳しい文化の受難の時代をその頃は、詳し
  い報道のなかったこともあり、上手く理解することは出来ませんでした。
  たしかに、’60年代のヌレエフやバリシニコフら、当代きってのクラシッ
  クバレエ界の天才ダンサーたちの、自由を求めての西への多くの亡命は、
  映画のなかの物語ではないかと思うほど遠い出来事にも思えながら鮮烈
  な記憶として残ります。  
   ミハイル・ゴルバチョフ登場によるペレストロイカ以来、この国はあら
  ゆる面で変貌を見せ、現代絵画もロシアではなかなか活発に変化してはい
  るようです。
   けれどこれまでの歴史、国民性などから見て、ロシアは風土としても古
  典を離れるのは遠い日のことではないかと勝手に推測しています。
   暑い国より寒い国に心惹かれるのは、白樺林と聞きなれてきたダークダ
  ックスのロシア民謡に、思い出が多めにあったというような、また全く単
  純に、体質的に暑さが苦手なだけということなのですが。
   
   しかしロシアは私にとっては海を越え、初めて旅した外国でもあります。
  その旅の本来の目的地は中国だったのですが、まだ日中の国交がない時代
  で一般の観光旅行はできなかったため、同じ文化圏である中央アジアに行
  ってみようと考えたわけで、とりわけ社会主義体制のソ連に興味があった
  のでもなかったのでした。ただ、噂に聞く、ネバ川のほとりの美しい水の
  街、古都レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)には、治安のい
  い時代に行かずに終わっているのはかえすがえすも悔やまれます。
   
   旅は、感受性の強い、若いときこそ多く行くべきだとしみじみ思います。
  空欄の残り少なくなった頭脳、その明度彩度の怪しくなったフイルム、
  訳知り顔で可愛くなってきた性質と年輪の嵩み、身体の疲労度は、興味深
  いはるかな国へのいざないを妨げるものばかり。 だから、  
     W若ものよ、思い立ったら跳べ! 月までも” ね。
 

           
           
サマルカンドのシャーヒジンダ廟群


   『シルクロードの詩(うた』(森 豊著)を読んでいるうちにどうしても、
  憧れの地、ユーラシア大陸に行ってみたくなり、新潟空港からハバロフス
  クに降り立ちユーラシアへの旅が始まったのでした。当時はウズベキスタ
  ン航空などの直行便はなく、中央アジアへの空の玄関はハバロフスクでし
  た。ハバロフスクからの国内便のアエロフロート機の、乗客たちの扱いは
  印象的なものでした。たとえば暖を取りたいときの紅茶は常にぬるま湯、
  冷たくて草鞋のような大きいだけの肉の味付けはふりかけ塩と胡椒のみ。 
  10月のシベリア上空の外気はすでに厳冬で、機内は相当冷えこんでいる
  のに毛布は冷たく拒否され、勝手に写真撮影はできないのはもとより何か
  と約束事ばかり多く、その上乗務員の態度はとてもかたくな。まさに乗せ
  てやっている、の姿勢です。
   
   タシケントまでの正味10時間強のフライトに、同行の中年のご夫婦は、
  一種の拷問ですね、と疲れ諦めきっていました。が、20代の好奇心旺盛
  な私は、噂に聞く社会主義とはこれかー、こんななのか〜と、酷いと思え
  るその待遇もさして辛さも感じず、体力で乗りこえてすべてを楽しみ、何
  にでも感動していました。若さとは、つくづく神様の恩寵なのです。
   飛行機も何か変わっていて、機内で向き合って木製食卓で機内食を取る
  などという飛行機らしからぬ事もあり、振り返ればまさに夢の中にいたよ
  うな不思議な体験の連続でした。また、ソ連製中距離型ツポレフ機は途中
  給油があり、イルクーツクとノボシビルスクでは暖かい紅茶にありつくこ
  とが出来ました。空港にはトランジット客のためにシベリアで採れる鉱石
  のみごとな陳列室などもあり、外の雪景色と一緒に地上の休憩を楽しむ余
  裕は与えられました。
   
   また機内では寒いながら、かなり達者な日本語のアナウンス、“ただい
  ま当機はシベリア上空1万1,000メートル、外気はマイナス53度、時速
  980キロメートルで飛行中です。間もなく右窓にバイカル湖が見えてまい
  ります。たのしい空の旅でありますよう” と、思いがけないもてなしが
  あり、めったにいないだろう外国人旅客にも、サービス精神はない訳では
  ないのです。 ウズベクでは国内線プロペラ飛行機で隣り合わせた、シー
  トベルトも回りきらないほどに太ったロシアのおじさんは、シートベルト
  が長すぎてまるで役に立たない痩せた私をとみに哀れみ、ベトナムの十代
  の少女と間違えていたようでした。言葉が通じないのは不便なもの、難民
  に見えたのでしょう。
   
   第一の目的地、サマルカンドでの夕食どきには、ピンキラの“恋の季節”
  など、ドイツ人グループも見かけられたのに、少し古くなったものの日本
  の曲をたくさん演奏してくれたものでした。 かつて、“輝く大地の顔”
  と世界に称えられた、中世の遺跡に埋もれたような美しく豊かなオアシス
  都市、サマルカンド。これらチムールの遺産と歴史の宝庫の国は、ウズベ
  キスタン共和国として独立後、当時どこに行っても見かけたレーニンの銅
  像もなくなり、貧しいながらソ連色は消え去っていることでしょう。

    帰路、新潟への国際線ソ連航空では、乗客は我々十数人のみでベルベ
  ットの上等な座席にアルメニアコニャック・キャビアの食事つき。私には
  一生に一度あるかどうか判らないような、ファーストクラスの忘れられな
  い待遇をうけました。それに季節的にこの旅は、中央アジアの秋の葡萄
  の収穫期で、砂漠の町では食べたいだけの葡萄とスイカが供され、ワイン
  は食事時はお茶のようにふるまわれました。外貨獲得の目的があったとし
  ても、ソビエトの人々は外国人にとても友好的で、並んでいても先に飛行
  機に乗せてくれる優しい心配りなど、忘れられない楽しいふれあいの想い
  出が残っています。 
   が、親切で気配りのいいインツーリストのガイドはまた、どこでもぴっ
  たり張り付いていて、勝手な行動への監視人の役目も持っていたわけなの
  でした。いまはもうソビエト連邦も、鉄のカーテンも20世紀とともに消え
  去り、振り返ればすべてが懐かしくも、遠い思い出となりました。


         

           
ハバロフスク郊外の日本人墓地


   それにつけてもシベリアは、決してロマンチックで清らかな、白樺やす
  ずらんのダークさんの民謡の中の世界のことばかりではなく、日本人には
  厳しい戦争の傷跡の地です。現地インツーリストの計いかハバロフスクで
  は日本人墓地を訪れ、日本の線香を手向け、思いがけない墓参の体験の機
  会を得ました。
   訪れた中央アジアの都市では、当時の社会主義国家の労働者のために、
  国の方針で各都市に必ず建てられたという洒落た劇場がありました。それ
  らの建設に携わったのは、抑留された勤勉な日本人兵士たちであった、そ
  してその仕事は優秀であった、と聞き、胸はいっぱいになりここでこんな
  遊び旅をしていていいのかと、沈む気持ちになりました。 
   実際、現地の女性と家庭を持ちながらも日本への帰国嘆願を何度も当局
  に働きかけ、しかし叶えられずにいた元日本兵が、訪れた当時その町に住
  んでいました。数年前テレビ報道で、一時帰国がやっと叶った日本語も忘
  れかけた老いた抑留者の、埋もれた長い歳月を知りひどく衝撃を受けまし
  た。
   自分が生まれる前に終わっていたはずの戦争は、広い世界の中では、遠
  い出来事ではまだ決してないことを、実感しました。
   また、墓があるハバロフスクではまだしも、参る日本人が来てくれるだ
  けいい。 何万もの同胞・日本人があの広い大陸の冷たい土の下のどこか
  に今も、日本恋しと眠っているのです。 半世紀を過ぎてなお、辛く哀し
  い戦争の現実を思い知ります。 シベリアはやはり今も、近くて、遠いと
  ころです。

                       

               
ブハラの寺院の猫  

   緯度により紅葉のない枯れ葉色の秋の、シベリアで見かけたロシアの猫
  には、灰色のイメージが強く残っていました。不確かなその由来と歴史の
  なかで命名された《ロシアンブルー》の名ですが、ジャクリーン・ケネデ
  イみたいな離れた両目と、日本猫には見慣れない不思議な毛色。ロシアン
  ブルーは長いあいだ、タイの僧院の聖なる猫コラット種とともに、見果て
  ぬ夢の遠い存在だと思い続けていました。


        
 

   
2. 不思議な縁に導かれ

 その時のねこ友達から突然電話連絡があったのは、それからかなりの月日が経ってからのことでした。 
 いまブリーダーさんのうちにいて、仔猫を飼うことにしたけれどあと20分でみんなぺットショップに行っちゃう、ついてはそのうち一匹を飼わないか というのです。なにしろ猫は、あのロシアンだというではありませんか!! 今すぐに決めないと間に合わなくる、飼うなら今決めて、といわれると頭が白くなり、後先は考えられず少しためらいながらも女の子一匹ひきとる気になり承諾したのでした。 Kまちのお店のあの仔猫を、ふと思い出しました 。しかしそれにしても、高価な買い物そして今、里親の資格はなくなったことは、後ろ髪惹かれることでした。 江ノ島のノラをそろそろ見に行こうかと思っていたところでもあったので。
 江ノ島の自由ねこたちのことは、黒猫ミーシャを横浜から運んできてくれた、別の古い猫ともだちの勧めであり、すでに彼女は兄弟猫を2匹引き取っていました。えのきち(改名てつや)としまこと名づけたその兄弟は仔猫時代にうちで1週間預かったこともあります。
 それにしても、遠い国からやってきてその野性的肢体で人を魅了する猫も、ふっくら可憐な見慣れた愛らしい和猫たちも、猫という猫はみなどうしてこうもなべて別嬪ぞろいなのでしょう。幼い頃の猫たちの写真は、まさに陽だまりの安楽イスのように、心を和ませます。神秘的なその瞳は、この世にはまだまだ未知の世界が沢山あることを教えているかのようでもあります。
 世界の歴史上の美女たち、時の権力者を虜にし、存在が世界の歴史を変えたとさえいい伝えられている、出遭ったこともない貴婦人たちもみな、私にはどこか魔性を秘めた可愛い猫の顔に重なってしまいます。
                
     
      
    
世界の灰色猫        

@コラット(タイ)
  

     Aシャルトリュー (フランス)  
 

   
伊豆温泉 ねこの博物館(The Cat Museum) Guide book
     『世界のねこちゃん』より

 

 
 
 3. ゴッドマザー、ベルベルと家族


 さて、くだんの猫友達はなぜブリーダーさんの家にいたかというと、Kまちの猫を忘れかけた頃、私鉄の駅前の猫好き陶器店の張り紙広告で、“ロシアンブルーの可愛い仔猫産まれました”というのをみたのだそうです。
 おしゃれな猫陶器も沢山そろえられたお店の夫婦は、とても猫好きのようで店内の壁は持ちこまれた猫の写真でいっぱい。サイズを制限してなるべく沢山展示したいということで壁は近所の自慢の猫たちの写真で埋もれていました。 ロシアンの仔猫の生まれた家はかなり近所だったらしくて、ロシアンブルーの名にひかれてふらっと(たぶん)見に行きそのかわいらしさにすっかり虜になったらしい、時の権力者でなくても、魅力的な猫族に誰しもふらふらするのはまったく無理からぬところです。
 ブリーダーさんはまだ若い女の人でした。そこには、お母さんのベルベルと年下のお父さんのヘンリー、そのいとこたちが同居していて、この血縁のオス猫たちがときに荒々しく男の争いを起すと、ゴッドマザーのベルベルが、時期をみて立ち上がり、彼らを睥睨。すると、なんとピタッと喧嘩は収まり男たちは、みんな潮が引く如く各々の持ち場にさーっと戻り、何事もなく終わるのだそうです(情けない夫だ、人間社会と同じ?)。
      
 ブリーダーさんの見立てでは、はな(ピンク)は一番の母親似のようだというのですが、誇張でなくすこしわかる気がします。純血種の規則により、はやくに不妊手術をしてしまいましたがこの子はいい母親になったろうな、としみじみ思うときがあります。めすねこらしい負けん気、強い自己主張、大食美食、怖いもの知らずでおしゃべりの社交家。立派な母として申し分のない性格のように思い、少し慙愧の思いに駆られます。
 はなは理不尽な叱り方だと感じると、猛烈に抗議して向かってきます。相手が誰であれいつも絶対負けない構えです。野生の習性かテンションが上がりすぎるともう大変、すっかり怖くなりおもわず、 わあミーシャ〜助けてェ〜 と温和だったなき黒猫の名など呼び、負け猫さながらトイレに逃げ込む哀れな私となります。 
 ニンゲンの母には護ってくれる素敵な毛皮もなく、皮膚は全く傷つきやすい薄皮だけなのに、なおも追い討ちを掛ける如くに背後からジャンピングして首に噛み付くプリンセスはな(だいたいプリンセスなんて呼んでおだてたのが悪かった、以後、下町のイライザ、と呼ぼう)です。 
 長い猫歴でも、こんな過激な猫は初めてです。 もちろん甘噛み、室内生活のストレス発散、狩のまねごとなどであり、猫の遊び相手をされているだけなのですが。 しかし、彼女は明らかに、情熱のカルメンねこ、ベルベルママの血筋です。おおまけして懐かしのアイドル、勇敢なリボンの騎士サファイア姫の再来、と呼んでみたり。
    
 しかし、まっすぐに人を見据える輝く瞳、愛くるしい寝顔、天性の甘え声にはつい何もかも皆わすれ抱きしめてしまいます。これは猫の人徳、そう、ねこはまさしく多重人格者。媚びず、おもねずまた時に冷徹。何もかも見通すような瞳で、全てを承知している孤高の猫族は、まさに正統派の哺乳類なのだ〜 などというともう、動物と縁のない人々からはしっかり嘲笑のマトになりますね。でも、これは本当に盲目の愛、褒めすぎなのでしょうかそれとも、真実なのでしょうか?

 

 
の仔ねこ、ロシアンな日々》

 それは青葉そよぐ5月の休日、灰色猫の赤ちゃんがやって来ました。友人の事務所ではじめて出遭った猫は、ねづみ色した忙しい猫でした。小さなポシェットに入れて大切に抱き、電車で運んできました。途中であった見知らぬおじさんは、抱きかかえたポシェットから出たねこの顔をみて相好を崩しました。なにかわくわくうれしくなりました。記念すべきお披露目の日、おもろい顔の仔猫が知らない人たちに出遭った日に、可愛いとどうやら思われたようなのですから。
 実際、くるくる回る目と微笑む愛らしい口元、見慣れない顔ながらほんとに可愛い顔なのでした。 観れば観るほどピンクのはなこは、ピンクグレーのシルクのような手触りの、これまで触ったことのない毛並みの全く新しい不思議な仔猫でした。
 
 仔猫には慣れていたので、生後50日で来た小さすぎるはなにも戸惑わなかったつもりでした。しかしです、朝起きるとなにかちょっと重い、それに妙なぬくもりが。  わ〜!!!。みごと掛け布団におしっこされたのです。どうも朝方におしっこをするらしい。以後、5時前には毎朝目覚めてしまい、夜型の私は何時眠ればいいのかわからなくなり、すっかり睡眠不足におちいりました。 
 ちょうど網戸カバーの大きなビニール袋があったので、羽毛布団にかけて寝ましたら案の定、朝そっと起きるおなかの上あたりに50ccほどの凍頂烏龍茶色のおしっこが溜まっていました。 
 また、夜はよるで、布団に乗ってもぞもぞしていたけれど、まだ夜だもの、と思って油断していたらはなちゃん幸せそうな顔をしてちょっとあごを上げた。もしやと思ったらあ〜やっている!! 
 思わずちっちゃな首たま捕まえて持ち上げ、同時におしりの下に手のひらを当てると、あ〜... ぬくい!  こらあ 私の掌はねー、はなのべんきではないのよ〜。 くぼめた手のひらに、また透き通るあのあったかウーロン茶が...などということもままありました。 
 髪振り乱す、という言葉をわが身に重ねる気の抜けない忙しい日々でありました。 きっと羽毛のにおいが動物的何かを刺激して、安全なトイレと間違えるのでしょうか、今ではおしっこはしませんが、相変わらず羽毛布団が大好きです。 ちょうど近所の蒲団店が、クリーニングキャンペーンを始めたので、おしっこのしみだらけになった羽毛蒲団とケットを洗いに出しました。羽毛蒲団は特別割引中だなんて、あんまりタイミングが良過ぎる、まさか猫と結託していたのではないでしょね。 (ああしかしこれにより、ボリショイバレエのチケット代は消えていき...)
     
 小さな仔猫一匹の身でかくも悪戦苦闘させながら、やがて少しずつ、はなこは我が家の猫になってきて、御用はトイレの砂でするようになりました。が、なんともスリリングで、あまり経験したくないほうの思い出です。しかしその思い出も過ぎてしまえばただなつかしいもの。そして今は御用のあと、相変わらず砂掛けはしないのですが、代わりにしつこくしつこく辺りをカリカリとかじるのです。 カーテン、木の床、ツールボックスなどなどをとても真剣な面差しで。その姿は前足をまるで拭いているかのように見えて、見ている人たちは感心して(あきれて)います。まあ手を拭く猫なんて―、なんてキレイ好きな猫だろう! って。 でもね、はなにしてみれば、これで砂を掛けて匂いをすっかり消し去ったつもりなだけなのです。 砂が掛からなければかぐわしい匂いはプンプンなのに、まったく、はなは、はな(鼻)が悪いのだろうか、用心のない猫です、もう野生では生きてゆけそうにありませんね。
                    
                       

 短い幼猫時代、アイスクリームみたいに小さく、ドラマチックで忘れられない天使の日々はかくのごとく、にぎやかにも静かに、またたくまに過ぎていったのでありました。
     
  

           

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