ミーシャ の  と  
 
 ーエトセトラ 

   
       
  
猫のように自由に心を放ち、ここは、風になり、雲になるへや。    
 

1. Ballet
2. 母の歌
  
3. My Poem







1 Ballet


  イタリアの宮廷で生まれルイ14世のフランスで大きく発展してきた
クラシックバレエ。 
銀座ヤクルトホールでヌレエフとフォンテーン、
ワガノワらの沢山のバレエ映画を見てさらに、さかのぼる中学時代、
ヌレエフの来日の頃のマーゴット・フォンテーンの日本公演
をテレビで観てから、
その優雅さと音楽の美しさのとりこに―。



 20代になって、急に自分も踊ってみたくなり、ふらふら(?)
バレエ学校を訪ね歩きました。
そのころは職業としてのバレリーナのための学校が多く、年齢から、
もう無理でしょうと多くは断られました。 
(当時はまだバレエはマイナーで、やがて来るバレエブームは
かなり後のことになります。)

*****

ユニーク・バレエ・シアター

拾う神はいました、西麻布の「堀内完 ユニーク・バレエ・シアター」
だけは入学を許可してくれました。ただし、
週三日通うこと、が条件でした。
土曜も含め週六日、昼勤務していると週三回のハードな稽古は大変です。
でも許可されたからにはと、週二回以上は死守しましたが、始めてから一カ月で
体中がおかしくなり、37度の微熱が長く続きました。年中筋肉痛が消えません
でした、がそれはなぜか快感でもありました、心も体も充実していたのでした。

 しかしあまりの厳しさに一旦挫折、
厳しい稽古にひるみ、稽古着やバレエシューズを
眺めてはため息をつく日が続いたのですがまた、
やはり復活、稽古に行きたい気持ちが
おこるのがバレエなのでした。
バーレッスンは体が一生覚えているもので、リンバリングは
今も時おりするエクササイズです、ドアノブや椅子の背などに足を乗せて。
バレエとは、麻薬のような、不思議な魅力を持つものです。

夕方5:00までには仕事を終え、
千代田線K駅5:08に乗ると5:30の稽古に間に合う!
遅れると、それだけでもう調子が狂うし
ミラーのある良い場所はなくなってしまう。
駅から駅、道路から道路を走り必死に通う稽古の日は、
昼食は大盛牛丼、3時にバナナ、
5時前に髪を堅く結い上げてスタンバイ、それっと飛び出します。
髪の始末はすでに踊りの一部、
今も覚えているスケジュールです。

入ったクラスの多くは10〜20代が中心で
特にアマチュアのクラスはなく
稽古は本格的でした。 
いちばん長く教えていただいた松原先生はその後、劇団四季に移籍、
ミュージカル キャッツ のカッサンドラ役で活躍され
私も二回観に行っています。先生は当初から四季の劇団員の
クラシックバレエの稽古を担当され現在も健在のご様子です。
美しくメリハリある踊りと、
レッスンの緊張感は忘れられません。
猫のようにチャーミングでしなやかな美智子先生は、
全国舞踊コンクールバレエ成人の部、
第2位の実力者でもありました。

いつだったか房総の海辺の夏季合宿で、
ラーメンを食べたり、サイクリングなどしたのは、
いまは懐かしい思い出です。
チャコットの前を通る時は、甘酸っぱい過ぎし日がよぎります。

1980年の東京新聞主催の全国舞踊コンクールで、
石井 漠賞を受賞した完先生は、はやくから
ジャスバレエを取り入れた新しいバレエの創作者です。
演目は『シェラザード』、『春の祭典』ほか、
舞踊への新しいセンスと先見性は、ユニークの名のとおりの
ユニークバレエ独自の世界だった思います。
後日モーリス・ベジャールの振り付けに、
どこかしらユニークバレエに
通じるような踊りのかたちを感じました。

クラシックバレエでの基本的な体力作りのためか
若い劇団員たちも学びに来ていました。
西麻布という街が足回りのいい都心ということ以上に、
ユニークバレエは、
開放的で学びやすい場所だったのだろうと思います。

15歳でローザンヌのコンクールで上位入賞し、
のちにNew York City Balletのプリンシパルとなり、
日本人の舞踏家の実力を世界に広めた子息、
さんはいまは海外で活躍中です。
この頃からユニークのスクールはバーを追加するほどの
生徒数となりました。
元・充兄弟の、
ローザンヌでの快挙に、みな沸いていました。

レッスンの音は生でなくテープでしたがそれは、
バレエ音楽が美しく組み合わされ、
非常に快適な選曲でした。
皆が踊るボルテージを上げさせられてしまう
完先生の直接指導は稀でしたが、いつも2時間は短く、
あっという間に過ぎるのでした。

私のバレエは当然ながら、楽しい趣味で終わりました。が、
アマチュアにも門を開き、
分け隔てなく教えてくださった完先生のバレエスクールには、
今も感謝の気持ちがあります。

内外のバレエ公演も、踊る側の目で見ることで
踊りのヤマ場、難易度などに気づくことになり、
舞台を味わう楽しみは深まるものです。

ずっとのち、いくつかのカルチャーのバレエクラスに
短期間参加した時、ユニーク・バレエのスタジオの水準の高さと、
踊りがいかに深く音楽と関わっているかを再確認して、
完先生の‘音へのこだわり’に改めて感嘆したのでした。

“踊りは見えざる音楽、音楽は見えざる踊り” は、
先生のバレエ芸術論です。
これこそ、バレエが総合芸術であることを物語るものと思います。


ルドルフ・ヌレエフ

映画『愛と悲しみのボレロ』で、亡命のバレエダンサーのモデルとなった、
ルドルフ・ヌレエフは、
マーゴットとともに森下洋子さんは
舞台での頼もしいパートナーであり、敬愛する友人であると語っていました。 
日本の優れたダンサーの中でも屈指の踊り手森下さんは、
まだ現役です。同世代として何時もその活躍に注目し感動しています。

初めてヌレエフの日本公演を観たとき、彼はすでに40代半ばであり、
ダンサーとしての肉体的頂点は過ぎていました。でも、百合の花束を抱え
ジゼルの墓の前に立つ黒いマントの王子アルブレヒト、ヌレエフは、
存在するだけですでにオーラを感じさせ、
この劇場で、いま、同じ空気を吸っていることに
すっかり感動してしまいました。

1961年、西側に亡命以来、家庭も持たず生涯を
世界中の舞台にささげたタタール人の天才バレリーノ、
ルドルフ・ヌレエフは、
エイズのため、50代半ばで、その生涯を閉じました。


美しきもの見し人は―

キラ星のように現れては、去ってゆく多くのダンサーたち。
肉体の限界に挑むうちに、精神のバランスを崩す人もいるという
過酷で、内面性をも強く要求されるバレエ界のアーテイストたち、
その中で、
もう一人どうしても忘れられないのは鬼才モーリス・べジャール率いる
当時の20世紀バレエ団の、
ロシア移民出身でアルゼンチン国籍の
ジョルジュ・ドンです。

東京バレエ団との また、映画『愛と悲しみのボレロ』での
神がかるが如き、ラベルの《ボレロ》で、
バレエを大衆に身近なものとした彼もまた
エイズにより、未来を残す45歳の若さで世を去ります。

それはヌレエフの死から、わずか数年後の1992年のことでした。
亡くなる二年前、池袋芸術劇場で「ニジンスキー 神の道化」を
最前列で観る機会がありましたが、そのときドンはあまりにも
ろうたけた肢体、白く透通るような皮膚となびく金髪、
中性的な、儚い幽玄の世界を漂わせていました。
ボレロを踊った30代のドンは、髪は栗色で皮膚は
ロシア人としては日焼けしたような野生的な健康色に見えていました。

カリスマ的ダンサーの相次ぐ死のあと、
どの踊りを観ても虚しさを感じ、
バレエ公演を観ることはとても少なくなってしまいました。
同じ時代を生きた同世代の星たちの表舞台からの退場は、
なににつけ心沈ませます。

当時、雑誌『アエラ』かが(確か)、舞踊家のみに留まらない
世界的な病によるこの悲劇を、
《エイズが芸術家に牙を剥く》
との記事で載せていました。 欧米の男性舞踊家のなかには
たしかに、家庭を持たない自由の人が多くいました。

その身を真に美に捧げた人には、
人間の幸せと信じられている生活様式は、自由を阻む檻であり、
創造力をたわめる世俗の世界でしかなかったのでしょうか。


♪♪♪♪♪♪♪♪

踊りも女性も超大好きというわれらのミーシャ、
ミハイル・バリシニコフは、
かなり世俗的で人間くさい舞踊家のようにも見えます。
彼は1974年旧ソビエトから、西側に自由を求め亡命しました。
跳躍の高さでは比類のない、といわれた天性の素質を持つバリシニコフは、
コミカルでなにか明るいキャラクター。
キーロフバレエのロマンチックバレエ出身ながら
現代モノも得意とし、トレンチコートなどで踊るのが似合い
とてもアメリカ的です。
しかもこの人間ミーシャは、元気過ぎてかあちこちに、
子孫を残しているといううわさです。
芸術家とは、そもそも自由で奔放なものらしい。

しかし何時の日にか、またもミーシャそっくりの素晴らしい
ダンスール・ノーブルに会えるのでしたら大歓迎です。でも、
私などは何歳になっているのでしょうねそのころ?


黒い瞳

さてここまで書いてきて驚いたのは、ネット上で検索してみて、
ロイヤルバレエのかつてのプリマ、フォンテーンに関しての情報の希薄さです。
マイヤ・プリセツカヤに関して多いのは彼女が生存中の、
偉大なバレリーナであることを鑑みれば当然です。
が、マーゴットも、クラシックバレエ史に耀く偉大なアーテイストであり、
英国王室から貴族の称号まで受けている程の功労者です。
しかし、悲劇的な晩年を過ごした彼女については、
すでに彼女の死からある歳月がたったとはいえ
ほとんど書かれていないということになります。
英国ロイヤルバレエ団のサイトには、偉大な芸術家、71歳で1991年に
世を去ったプリマ・バレリーナ マーゴット・フォンテーンに関する
特別の記事はありません。

白い薔薇の花のように端正な面影のマーゴは、
黒い瞳に黒髪の、ブラジル系英国人でした。
優れた美しい踊り手は数多い、でも
バレリーナの気品とは、まさに彼女をおいてない、
とさえ私には思えるのです。

フォンテーンとヌレエフの伝説的な
パートナーシップ、二人のおいたち、芸術家としての出会い、
出演したほぼすべての作品の解説および写真集として、
アレキサンダー・ブラント著、ケイコ・キーン訳解説の
『フォンテーンとヌレエフ ―愛の名場面集― 』
    原題《Fonteyn and Nureyev - The story of partnership》
1982 文化出版局 ¥3,800
があります。




                        




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